住職の徒然日記

2015/07/24
井戸を掘ってます
カテゴリー:ブログ

境内墓地の一角に井戸を掘っています。この辺りはかって、北上川が流れていた

ことがり、水は出ると思い業者さんに依頼しました。

6メートル位突いたところで、大量の砂と共に水は出てきました。

しばらく、汲み出すと一時的にきれいな水となるのですが、直ぐに元の砂混じりの

水となるのでした。

恐らく、突いたパイプの先端が砂の層であった為に、一時的に先端の回りの砂が

除去されたとしても、砂の層が崩れて砂が入り込んでしまうのでしょう。

そこで、もう少し掘り下げることにしました。

うまく、出てくれればいいのですが?

井戸掘りの準備    砂混じりの水が出る

井戸を掘る準備        砂混じりの水が出る

 

 

2015/07/22
カンカンばあちゃん

お盆の季節がやってまいりました。普段、遠くに離れている方も、帰省し、みんな揃ってお寺やお墓にお参りし、亡き人をご供養致します。ある家から、亡き人のご供養の為に招かれた時の事です。
そこの家の亡きおばあちゃんのお孫さんで幼稚園の男の子が「和尚さん、カンカンばあちゃんを拝みにきたの?」と聞くのです。「そうだよ、でも、どうして、カンカンばあちゃんと言うの?」と尋ねると、「だって、いつも、ナムナムしながらカンカンと鐘を叩いていたの」と言うのです。
私が御仏壇の前で、お勤めを始めようとしたとき、その子のお母さんが、「和尚さん、この子も一緒にお勤めしたい言うの、宜しいでしょうか」と聞くのです。その子は、いつもおばあちゃんと一緒にお経をあげていたのでした。
私と一緒に無心に般若心経をお唱えするその子の後ろ姿に、誰しもが、在りし日のおばあさんを重ね合わせたのでしょう。
お勤めを終え、振り返ると、その場にいた家族はもちろん、親戚の方々が、涙を拭きながら、その子に「有難う、有難う、おばあちゃん、とっても喜んでたよ」と言うのでした。
とんちで有名な一休禅師は、「死にはせぬどこへもゆかぬここに居る たずねはするなものは言わぬぞ」と言って、亡くなられたそうです。亡き人は、何処に行くのでもなく、故人の愛した人の心に、いつも一緒にいるのです。
おばあちゃんは、これからもずうっとずうっと、その子の心に生き続けていくことでありましょう。

2015/07/22
いじめられた子猫

ある冬の日のことです。
中学生らしき二人の少年が、お寺の近くにある橋の上から、何かを川に放り投げ、さらに、石を投げつけていました。
遠くから見ていた私は、何をしているのだろうと、駆けつけました。川に落とされた「それ」は子猫で、必死に岸に向かって泳いでいました。
少年たちは、子猫が必死なのが面白いのか、更にしつこく石を投げつけていました。
「こら!何をしているんだ。やめろ!」見るに堪えかねた私は叫びながら土手をかけ下り、寒さでブルブルと震えている子猫を川から抱き上げ、少年たちに、「こんな弱い生き物をいじめて何が面白いんだ!子猫の気持ちになってみろ!」と怒りました。少年たちは逃げるようにその場を立ち去りました。

お寺に連れて帰り子猫の濡れた身体をタオルで拭いてやろうとしましたが、子猫は小さな口を開けて牙を出し、決して身体を触らせようとはしませんでした。 それから数年経った今でも、人を見ると直ぐに身を隠してしまいます。子猫のときに受けたいじめによって、人間に対して心を固く閉ざしてしまったのです。

今日の学校でのいじめの問題は本当に心が痛みます。力による暴力はもちろんですが、言葉による暴力も人を深く傷つけてしまいまいます。たとえ、軽い気持ちでふざけてからかっただけだと思っても、受けた側は、心に深い傷を受けていることもあるのです。
私たちも、何気ないちょっとした振る舞いや、言葉が相手を傷つけていないか、反省したいものであります。

2015/07/22
言い訳のない日暮

二月末に当寺の檀信徒の方々と福井県にある曹洞宗大本山永平寺に参拝に行ってまいりました。

永平寺では、二月中頃から三月末にかけて、全国から百名以上の雲水さんが修行にやって来るのです。その日も、山門前には数名の雲水さんが、雪が降りしきる中、立たされておりました。その姿を見て、私は二十数年前の自分を思い出しました。

永平寺での修行で一番戸惑ったのは返事で、「はい」か「いいえ」しか認められないのです。「これをやるように!」と指示されても、「やったことがありません」と答えるや否や、「言い訳をするな!」と怒られるのです。

修行に行く前は、いかに言い訳の生活をしていたのかと思い知らされたのでした。

家庭や仕事場でも、やらなければならないことがあっても、「今日は忙しいから」とか、「疲れたから」と言い訳をし、延ばし延ばししていたのでした。

曹洞宗を開かれた道元禅師様は、「道を求めようとする者は、明日からとか思ってはならない。今という今を取り逃さずに、直ぐに行うべきである」と申されております。

これは、ある人が、今は病気がちであるので、治ってから仏道修行しますと常々言っていたのでしたが、結局、仏道修行が出来ないまま亡くなってしまった方の例を引き出して、諭されたお言葉であります。

今やらないでいつやるのか、時は待っていてはくれないのです。お互いに、言い訳のない日暮を心掛けたいものであります。
「そのうち」

そのうち お金がたまったら
そのうち 家でも建てたら
そのうち 子どもが手をはなれたら
そのうち 仕事が落ち着いたら
そのうち 時間のゆとりができたら

そのうち・・・・・・・・
そのうち・・・・・・・・
そのうち・・・・・・・・と、

できない理由を
くりかえしているうちに
結局は何もやらなかった
空しい人生の幕がおりて
頭の上に 淋しい墓標が立つ

そのうちそのうち
日が暮れる
いまきたこの道
かえれない
(相田みつを)

2015/07/22
煩悩を溶かす生き方を

平成16年12月28日 岩手日報「紙上法話」に掲載

大晦日、除夜の鐘の音と共に今年一年間の心に積もった塵を払い、清浄な心で新年を迎えたいものです。 とは言え、 [掃けば散り 払えばまたも塵つもる 人の心も庭の落葉もという歌にあるように、「心の塵」=「煩悩」は生きている限り完全に無くすることは出来ません。

しかし、それに振り回されないようにコントロールすることはできます。「仏と衆生とは水と氷との如し」という言葉があります。  衆生とは煩悩にとらわれて心が氷のようにカチカチになってしまった私たちのことで、煩悩のないサラリとした水のような心をもっているのが仏ということです。  水も氷も成分は同じH2O、 氷った心を溶かして水の状態にすればするほど、仏の心に近づけるのです。

人は一人では生きて行けません。社会や自然、多くの人たちの支えによって生かされております。誰しもが持っている欲を、  自分一人が満足を得るためにだけ使えば、「我欲」となりますが、支えられている事への感謝と自らも他を支えようという事に使うならば、「欲」は「布施」の心に転じます。  自らの心を暖かい思いやりの心で溶かすような生き方、これこそが煩悩をコントロールする生き方に通じるのです。

 

イラスト:高澤公省 老師
イラスト:高澤公省 老師

ある実話に若い母親が止むに止まれず、幼い子供を連れて嫁ぎ先の家を飛び出し、実家に帰ろうと汽車に乗ったのでした。  終着駅の上野駅に着いたのですが、切符を買うお金も持っていなかったので、出るに出られず思案に暮れてしまいました。  いっそ、幼い子供を道連れに・・・とホームを見つめていた時でした。一人の中年紳士が、「どうかしましたか?」と声を掛けてくれました。  訳を話すと「待っていなさい」と言葉を残し、やがて切符を買って戻って来たのでした。  「お名前を」と言った時には、もう、紳士は人混みの中に紛れ、見えなくなってしまったのでした。

それから五十年、今はひ孫にも囲まれ幸せな暮らしをしているその婦人は、紳士にお会いしなかったなら、  今の幸せはない。紳士にお会いした師走の三十日には花を生け、[お名前もお顔もわからない、紳士様] と、毎年毎年手を合わせ、年を越しているのだそうです。

道元禅師は「人は善い事をする時は、人に知られたいと思うし、悪い事をする時は人に知られたくないと思う。」と言われております。  この紳士の行いは、それらの計らいから離れ、布施というのは目立たなく、サラリと行うものだということを教えてくれております。

私たちも自分の為にだけではなく、誰かの為にさりげなく手を差し伸べる。  そんな生き方を心掛ければ、それが自ずと煩悩をコントロールする生き方に通じるのではないでしょうか。

30 / 32« 先頭...1020...2829303132