住職の徒然日記

2015/07/22
ケガをした犬

私は、朝夕犬を連れて近くの土手を散歩するのを日課としています。

そこは、大変景色の良いところですが、残念なことには河原や土手には缶、ビン、ビニール、プラスチック類、はては紙おむつまでもが捨てられていたのです。

それで、少しでもきれいにしたいと思い、ゴミを拾いながらの散歩となったのです。

そんなある日、川から流れてきたゴミを、竿の先に引っ掛けて取ろうとしたのですが、誤って足を滑らせ、川に落ちてしまいました。

その時、何を思ったのか、連れていた犬が川に飛び込み、その流れて来たゴミを口にくわえて持って来たのです。

それ以来、私と犬の二人三脚のゴミ拾いが始まったのです。  ところがある日、いつものように犬が川から流れてくるゴミを見つけ、拾おうと土手を駆け下りた時のことでした。  突然、犬が「キャーン」といってうずくまってしまったのです。  駆け寄ってみると、足の裏から血がボタボタとたれ、そばには鋭利に割れたガラス瓶がころがっていました。  犬は、痛さとショックの為か動けず、私は犬を背負って帰り、病院に駆けつけたのでした。

犬のケガは、足の裏の組織の一部が欠損したのでした。  幸いにもケガは一ヶ月ほどで治り、またゴミ拾いが出来るようになったのでした。

誰かが何気なく捨てたガラス瓶なのでしょう。  そのガラス瓶が、犬をケガさせたとは捨てた本人は知るよしもないでしょう。

しかしながら、その心ない行為が残念な結果を招いたのです。

ゴミのポイ捨ては勿論のことですが、私たちは普段生活する中で、何気ない行為や、ちょっとした言葉使いで、周りの人たちに迷惑をかけたり、いやな思いをさせることもあります。
反対に、ちょっとした思いやりで、お互いにあたたかい気持ちで暮らせることも出来るのです。

今一度、自分の行い、自分の言葉を振り返ってみたいものです。

2015/07/21
山のゴミを拾う青年

何年か前のある夏の暑い日、高山植物のハヤチネウスユキソウで有名な早池峰山に登ったときのことです。

大きなリュックを背負い、先端にフックの付いた竹の棒をもった一人の青年に出会いました。

その青年はしゃがみ込み、岩の間にその棒を差し込んでいたのです。  一体何をするのだろうと見ていると、その棒にゴミを引っ掛けてはリュックにいれているのです。  リュックからは腐った臭いが立ちこめていました。

私は、山の管理人さんかと思い、話しかけてみました。すると、管理人でも何でもない。  ただ、山が好きで何度もこの山に登らせてもらっている。  そのお礼と感謝の気持ちから時間を作ってはゴミを拾って持ち帰っているというのです。

平日で登山する人もほとんどいない真夏の山の中で、一人黙々額から汗をボタボタとたらしながらゴミを拾う青年の姿を見て、  今までは散乱しているゴミを見ても、「心ない人がいるなぁー」と怒るだけで、足下にあるゴミ一つをも拾わなかった自分を深く反省させられたのでした。

曹洞宗を開かれた道元禅師さまは、「世人多くは善事を成す時は、人に知られんと思い、悪事を成す時は、人に知られじと思う」と言っておられます。

確かに私たちは、善いことをする時は人に知られたいと思うし、反対に悪いことをする時は人に知られたくないという気持ちがあります。

その青年の黙々たる行いは、私たちのそのような心とは大きくかけ離れ、爽やかな感動を与えてくれました。

私たちも一人一人がゴミを捨てないことは勿論ですが、「一人一人が足下にあるゴミを拾おう」を心掛け、美しい自然を次世代に残してゆきたいものであります。

2015/07/21
「アリガトオヨ」

日本で一番美しい言葉は、「ありがとう」という言葉ではないでしょうか。
お世話になった方に、心からの感謝の気持ちを笑顔で「ありがとう」と伝えたいものであります。

過日このような新聞記事が載っておりました。

ある町に、九十歳を超えたおばあさんが暮らしておりました。  隣には、おばあさんのホームドクターのお医者さん夫婦が住んでおりました。

おばあさんは、尊敬する先生に取り立ての新鮮な野菜を届けたりしておりました。  先生は先生で、「おばあちゃんは私の人生のお師匠さんさ」と言っておられました。

しかし、おばあさんも寄る年波には勝てず、先生の手厚い看護もむなしく息を引き取りました。  二週間後、あばあさんの娘さんが遺品を整理していたところ、遺言が出て参りました。

それは、粗末な厚紙に鉛筆でたどたどしく書かれた「センセイ、オクサン、アリガトオヨ」という文字でした。

読み書きの出来なかったおばあさんがいつ習ったのか。  カタカナで精一杯表現したお礼の言葉でした。

それを娘さんから見せてもらった先生は、ボロボロと涙を流して感激したそうです。
四十年間、医院を開いて来た先生にとって、遺言のお礼は初めて。  立派に表具して、診察室に掛けているそうです。

おばあさんは、お世話になった先生夫婦に、自分が出来る最大限の真心を「アリガトオヨ」と書き残したのです。

私たち人間社会は、言葉によって自分の考えや気持ちを相手に伝え、相手の言葉を通して意志の疎通を図ることが出来ます。

言葉一つによって、互いに心豊かになれるのです。

心から「ありがとう」と言える人に、また「ありがとう」と言われる人になりたいものであります。

2015/07/21
心のゆとり

ある大学で出された試験問題です。ご一緒に考えてみたいと思います。

どんな問題かと申しますと、「風に揺れている電線に、鳥が平然と留まっていられるのはなぜか?鳥の心になって答えなさい」という問題です。

即ち、大嵐の時など大きく揺れている電線に、鳩でも雀でもいいのですが悠然と留まっていられるのは何故か、ということです。

模範的な答えは、「それは鳥の心にゆとりがあるからである。もし振り落とされても、すぐに飛べばいいという絶対の安心感があるからである。」というのだそうです。  なるほどと、頷かされました。

確かに私たちは畳の敷居の上は平気で渡れます。  でも、同じ10センチ位の幅の板が、何十メートルという高い所にあると、どうでしょうか?

落ちると怪我をする、あるいは死んでしまうかも知れない。という恐怖が先に立ち、足がすくんで渡ることが出来ません。

この場合、もし私たちが鳥よ同じように飛べるという「心のゆとり」があれば、平然と渉ることが出来ます。この細い一本の板を私たちの人生の路と考えてみましょう。

私たちはこの一本の板の上を、ある終着駅(死という)に向かって確実に進んでいるのです。 この歩んでいる板の周りからは、様々な快楽の誘惑、あるいは悩み、悲しみ、苦しみの手が伸び、歩んでいる板から引きずり降ろそうとします。
そういう人生にあって、嬉しい時には、素直に喜び、悲しい時、苦しい時は必ずいつしか光が射すことを念じ、じっと耐える。  嬉しいときには有頂天にならず、苦しみの時には打ちひしがれない、そういう「心のゆとり」をもって人生を歩みたいものです。

その為には、生きるための羅針盤が必要であります。それが、宗教であります。
共に正しい信仰に目覚め、深めて行きたいものです。

2013/07/22
ある少年からの手紙

ある日、お寺に一人の少年が二名の教官に伴われ、やって来ました。その少年は間もなく盛岡少年院を出院するので、社会に復帰する心構えを教えて欲しいと言うのでした。

そこで、お釈迦さまのお言葉を引用し、「おのれこそ おのれのよるべ おのれを措(お)きて 誰によるべぞ よくととのえし おのれにこそ まことえがたき よるべをぞ獲(え)ん」と、つまり「自分を依りどころとせよ」と話ました。

あなたが仲間と群れて、集団で人を傷つけているときは、本当の自分を見失い、相手を思いやることのできない自分がいた。今、お寺に来ているあなたは、本来の素直な優しい自分になっている。その整ったおのれを依りどころとして、社会に復帰して欲しいと話したのでした。

お昼になったので、お寿司とケーキを用意しました。少年は美味しそうに食べ、やがてお寺をあとにしました。

後日、少年から手紙が届きました。「過日はお忙しい中、ためになるお話、元気づけられるお話を有り難うございました。私は仏教の本などを読み、学ぶべきものが沢山あると感じました。以前の私は、自分だけ良ければいいという考えでした。でも、これでは人とうまくやっていけるはずもなかったのです。 お昼にはお寿司を頂いて大変恐縮です。一年ぶりのお寿司は本当に美味しかったです。ケーキも四つも頂いて、食べてばかりで申し訳ない気持ちです。私は、もうあと何日かで出院です。社会ではこの少年院生活で学んだ事を生かし、もっと、色々なことを学び、体験し、自分を向上させるよう頑張ります。人に振り回されずに、自分を整え、自分を依りどころとして、自分の道を歩きます。有り難うございました」。私はこの手紙を読んで、その少年は立派に更生しているものと信じております。

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