法話集

2016/02/17
涅槃会に因み
カテゴリー:法話集

お釈迦さまが亡くなられた命日の2月15日は多くの寺院で涅槃図を掛け、涅槃会法要が営まれます。

涅槃図の中央には黄金色に輝くお釈迦さまが枕を北にして臥せられ、その周りには嘆き悲しむ天の神々、菩薩、弟子たちが画かれています。お釈迦さまのお顔だけは、穏やかな微笑みを湛えておられます。お釈迦さまのお顔を如何に安らかな表情に描くかが、絵師の腕の見せ所と言われております。

お釈迦さまの最後の説法に基づく「遺教経」というお経があります。その初めの部分に、「度(ど)すべき所の者は皆已(すで)に度しおわって沙羅双樹の間に於て、将(まさ)に涅槃に入りたまわんとす」という箇所があります。
「私は人々に教えを説き、悩みや苦しみのない安らかな悟りの世界に導いてきた。今は一切の思い残しもなく、沙羅双樹の樹の下で安らぎの世界に入ります」という意味です。更に「遺教経」の中に、「為(な)すこと無(の)うして空(むな)しく死せば、後に悔いあることをいたさん」とも述べられております。
「やるべきことをせずに空しい生き方ばかりしていたのでは、いよいよこの世からお別れするときに後悔しますよ」と喚起しております。

お釈迦さまの穏やかな微笑みは、成すべき事を全て精一杯やり遂げた思いから生じているのでしょう。

曹洞宗を開かれた道元禅師は「学人(がくにん)は必ず死ぬべき事を思うべし」と言われております。仏道を学ぶ者は、人は間違いなく死ぬのだと言うことをよくよく考えなさいという意味であります。

私たちはこの世に生きているのは当然で、死ぬのは運が悪いというか、偶然であると思ってはいないでしょうか? その証拠に、人が亡くなると「まさかあの人が」とか、「運が悪かった」と思いがちです。
しかしながら、よくよく考えてみると、実は生きていることは、様々な縁に恵まれての偶然であり、死ぬことは必然なのです。まさに「生は偶然、死は必然」ということであります。

曹洞宗でよく読まれるお経に修証義というお経があります。その中に「人身(にんしん)得(う)ること難(がた)し」という一文があります。私たちが今、人として生まれ、今このように生かされていることは、有ること難し、偶然の上にも偶然が重なった結果なのです。

私たちが生まれるためには必ず父親と母親がおります。そして、父親と母親にはそれぞれ2人づつの親、即ち4人の祖父母が、4人の祖父母には8人の曾祖父母が8人の曾祖父母には16人の曾々祖父母が、そうしますと一代さかのぼる毎に倍ずつ、2人,4人,8人,16人,32人,64人,128人,256人,512人・・・・と倍々と増えていきます。

十代さかのぼると(一代を仮に25年と計算すると250年位前)1,024人の先祖が、二十代さかのぼると100万人、三十代さかのぼると(約750年位前)と、何と10億の先祖がなければ今の自分がないということになります。

皆様の先祖がその時その時代を一生懸命生き、命が連綿として引き継がれて来たお陰なのであり、一人一人の身体にはそれだけ沢山の先祖の血が、命が受け継がれているのです。その中のたった一人でも欠けると今の自分が無いことになります。
まさしく「人身得ること難し」であります。ですから。今ここに生きておるということは本当に難値難遇の出来事であり、「有ること難し」なのであります。

涅槃会に因み、、改めて命というものを見つめ直し、今を生かされている自分、今を生きている自分を自覚し、一時一時を、日々を一生懸命に、そして丁寧に生き切るということを誓いたいものであります。

最後に、涅槃図のお釈迦さまのお姿を自分の亡くなった時の姿に置き換えて見て下さい。

その時に、自分が微笑んで、周りが悲しんでくれているでしょうか?

それとも、自分が死にたくないと嘆き悲しんでいるのに、周りが笑っている・・・・。それでは、あまりにも寂しい人生ですね。

お釈迦さまのように自分が微笑み、周りが嘆き悲しむような生き方を
当寺の涅槃図